社会福祉法人輝風会 風の子保育園 春風デイサービスセンター そよかぜ児童クラブ 給食室より

住民投票の街に生きる

 家族の困難を支える福祉を
   相坂 功  相坂滋子

反対に○
 みんなで げんぱついらない
 げんぱつはんたいに
 ◯をおねがいします。
 わたしたち ぼくたちは、
 へいわな巻町が大すきです。

このメッセージは、巻原発住民投票(一九九六年八月四日投票)の直前に、わが家の白いフェンスにセロテープでとめてありました。たぶん、小学校一年生くらいの子が書いたものでしょう。子どもの素直な気持ちが伝わるこんなメッセージに励まされると同時に、住民投票までの歩みが、けっして間違っていなかったことを感じました。癒着、汚職の昨今、子どもたちの澄んだ瞳に応えられるような生き方を、私たち大人は求められているのではないでしょうか。
 ここでは、無認可保育園、認可保育園、町長選挙、住民投票までの保育や住民との交流を、自分史的に述べます。その中で、親の想い、子育ての想いが伝われば幸いです。

勝手につくった保育園

「自分の保育園がつくりたい」「つくってやるよ」。このような会話から、近隣の無認可保育園の一保母だった妻滋子との結婚、保育園、そして政治活動へと続いていきます。父親を早くから亡くし、財産も何もない私と、母親の看病のためuターンしてきた彼女との出発でした。保育園のはじまりは、一九八〇年四月、当時二五歳の園長が経営する倉庫を改造してできた無認可保育園でした。
 浦和市での乳児保育の経験を生かそうと、「働くお母さんを応援します」をキャッチフレーズに「ベビーランド」の名前で開園しました。その後すぐに、ベビーホテルの問題が世間を騒がせるようになります。中傷にもめげず、近郷で唯一の「産休明けからの長時間保育園」が働き続ける母親たちに支持され、徐々に子どもが増えていきました。
 そんな頃、流産とそして出産の後に待ち受けていたのは、「自分の子どもを職場につれてこないで!」の職員の強烈な反対でした。これからは産休明け長時間保育の時代で、競合するのは既存の保育園ではなく「子守さん(この頃はたくさん居ました)」だと思っていましたが、自らが産休後すぐに長女を子守さんに預けることになりました。もちろん、私たちの子どもの送り迎えの仕事が増えました。
 四年後の一九八四年に、「ベビーランド」は新築移転することになります。木造二階建ての園舎を建てましたが、今度は引っ越し間近に「二階で保育はできない」と、全員退職すると言い出し、親まで巻き込んでの大騒動でした。「階段のない保育園を造った訳ではないが......」と、どうにか親から納得してもらいましたが、保母一人が退職してしまいました。急遽の求人に応えてくれた人が現在の主任の大滝保母で、遊びのナチュラリストです。長女、長男の保育も許可され(ベビーランドでは、未満児保育のため、長女は他の保育園との二重保育)、ようやく私の送迎も免除されました。妻はやりたかった保育に没頭し、「ベビーランド」の金策が、私の仕事となりました。
 突然の伝染病。父母がとれるだけの年休を使い、まだ足りない、「何とか助けなければ」という思いで自宅を開放しました。二週間後、今度は兄弟と他の子です。ここから「頼めば何とかしてくれる、面倒をみてくれるんだ」という信頼関係と、「うちの子と一緒にみるから」と、親同士の「困ったときはお互い様」ネットワークができはじめました。核家族、共働き家族を支えるのはこういうことなんだ、と思えるようになりました。
 夕飯は六、七人の子どもと一緒が当たりまえ。午後六時半までの保育では済まないのです。八時頃、お迎えのお父さんを掴まえては宴会の日々が続いたように記憶しています。共働きの真面目な父に教えた日本酒は「誘われればことわらない」という彼の信条になっています。

沐浴  哲ちゃんとの出会いの頃

 一才児の哲ちゃんとの出会いは、八八年でした。お母さんと哲ちゃんが小千谷市、お父さんは京都市から引越して、ようやく一家三人一つ屋根の下に住むことができました。が、「明日から預けよう」とした日に「めばえ愛稚園」が突然、借金の担保に差し押さえとなったのです。
 三月末にベビーランドの電話が鳴り、「園長が夜逃げして、保育園には恐そうな男の人が出入りしている、助けて......」と、めばえ愛稚園時代の後輩からのせっぱ詰まった声に、受話器を置くと同時に飛び出しました。
 そこに待っていたのは不安でいっぱい、昼寝の子どもたちを夕方まで守ることが精一杯といった暗い表情の保母さんたち(この表情を見ただけで今までのつらい境遇が解る)。「明日からも保育を続けるために力を尽くそう」と励ます哲ちゃんのお父さん、人なつっこそうでいたずらぽい目をして微笑む哲ちゃん、抱っこしているお母さんがいました。
 状況をとっさに判断し、哲ちゃんのお父さんと「保育を続けるための方法」を探りましたが、保母さんたちの「恐くてここで保育を続ける勇気がない」の言葉に絶句しました。しかし保育を止める訳にはいきません。預けている保護者の皆さんに隣町のベビーランドで受け入れすることを伝え、戻り、このことを職員にも伝えなくては。もちろん哲ちゃんのお父さん、お母さんにも「ベビーランドを見に来て、良かったら預けてください」と地図を渡しました。
 私よりも早く着いた(?)お父さんたちは、ベビーランドの玄関先で赤ちゃんをおんぶしている本間保母や早目に目覚めた一才児を相手に遊んでいる大滝保母と、引っ越し早々大変な事態に巻き込まれたことなど雑談をしていました。この時のことをお父さんは後々まで「ベビーランドと聞いて、きっと赤いマニュキュアをした保母さんが、タバコでもくわえているんじゃないかなと思って心配だった」と語っています。

典型的な無認可保育園

その頃のベビーランドは、新しい園舎ができ、保育ができる夢と喜びにあふれていました。しかし、何の補助金もないベビーランドの保育状況は、典型的な無認可保育園でした。最低基準ですら、神々しく光り輝くように思えたほどです。
 〇才児はおんぶして、身体を揺すりながら、両手にほ乳ビンを持って。ハイハイしている子に「おんも(お外)に小鳥さんが来たよ」と言いながら、寝ている子の寝息を確かめるという、全身をとぎ澄ましての保育。〇才の一対六をこなし、それでも慣れれば極楽。結構楽しかったし、わずかな時間を作っては外へ、外へと出かけていきました。
 玄関先での保育は当たり前、いい天気になればおんぶして手を引いて、神社、消防署、学校、いたるところが保育室とばかり神出鬼没のベビーランドの子どもたち。近所のおばさんたちとも顔馴染みです。楽しい外の散歩が終わり帰ってくると、もう大変。保母一人で〇才児六人ですから、一・二才の保母は一〇人もの面倒をみました。
 ご飯の準備ができるまで、汚れた服の着替え等、保母に変わって「ビデオの保育」。人気は「となりのトトロ」、これを見せながら昼寝の準備。まり衣(わが家の次女一才児)は「トト」「トト」とテレビをつけろと時間がくれば催促です。
 食事の時間の一才児は椅子に座って最後まで食べることは至難の技です。食べている隣で居眠りが始まり、おかずが足りない子はどこまでも行って取って食べる、食べることに興味のない子はテーブルに塗ったくりを始める。そこで「落ちついて食事がしたい」と、幼児椅子に身体を固定するためにガーゼの布の紐で縛って食事をとることとなったのです。これでチョロチョロと動き周りがなくなり、みんなで食事を取ることができましたが、紐で縛ることの後ろめたさは心のどこかで引っかかったままでした。
 でもいま思うことは、こんな無認可状態の保育内容を安易に責めるだけでは、何の改善にもつながらないことです。餓死寸前の人に「残飯あさりはお行儀が悪い」と言うのと変わりありません。私たちの場合は、認可保育を実現していく方向に目を向けて、ベビーランドの保育を改善できたことは幸いでした。

軒下  お父さんは
   ウルトラマンはきらいだなぁ

 一才児の仲間入りをした哲ちゃんが一番興味を示したのが「キャラクター」、○○レンジャーの人形。気に入って、お父さんのお迎えが来て「また明日使おうよ」「保育園のおもちゃだから片づけて帰ろう」と言っても、がんとして聞こうとしません。玄関で人形を握りしめて離そうとしない哲ちゃん。お父さんはいつものお迎えのように哲ちゃんに今日何をして遊んだのか、これから帰ってお父さんと何をして遊ぼうかと、決して赤ちゃん扱いすることなく対等の関係で話し合いが続きます。私はこの会話を聞きながら、哲ちゃんの家庭ではきちんと教育の方針があることを実感しました。
 私たちが毎日保育園で散歩をしたり、砂遊びをしたり、ご飯を食べ、昼寝をすることと同じように、テレビも生活の中の一つ。ウルトラマンになりきって怪獣をやっつけたり、○○レンジャーになり変身ごっこも楽しい遊びの一つでした。
 ウルトラマンは一才から三才児くらいまでは誰でも通る通過点であって、はしかのようなもの。ウルトラマンに出会う時期にはしっかり出会い、どっぷりつかってやがて卒業していく。大人たちの基準で良いもの悪いものを判断して排除するのではなく、ありのままの現実の中で育てたい、また育ってきた子どもたちでした。ウルトラマンのヒーローを演じていた三才児も仲間との経験や体験を通して共感できること。共有できることの喜びを知れば、すんなりとウルトラマンは卒業できること。二重保育の子どもたちや学童の子どもたちを見て実感していました。
 この哲ちゃんとお父さんのやりとりを見ながら思わず、心の中で「哲ちゃんがんばれ、今日はその人形もって帰っていいよ、がんばれ、がんばれ」と叫んでいました。
 哲ちゃんはいつもはお父さんの話しに納得して帰るのに、今日は違いました。哲ちゃんもこれ以上お父さんの話しを聞いたら「この人形を離さなければならない」と感じたのでしょう。「お父さんはウルトラマンはきらいだなぁ」の言葉に「哲ちゃん好き!」と言って人形をしっかり抱え込んでしまいました。「お父さん、こんなにいっているのですから、今日一日お家へ人形をもっていってください。明日返してもらえばいいんですから」と哲ちゃんに心から拍手を送りながら持たせて返しました。
 このことは、私の保育とは何か、子どもたちを取りまく環境づくり、子守ではなく保育へと学習しなければという漠然とした想いを残してくれました。哲ちゃんのお父さんとの出会い、哲ちゃんとの出会いがなければ「どうせ、無認可なんだからこんなもんでいい」と決めて努力もなかったのではないかと思います。まさに運命的な出会いがそこにあって、あらためて保育の学習が始まったのです。

無認可から認可へ

保育とは何の関係もないところから首を突っ込まざるを得なくなるのは、園舎がまたしても手狭になってしまったからです。三三人の乳幼児に、他保育園からの延長保育児一一人(二重保育)、そこに学童保育も加わって施設的に保育所最低基準を下回る飽和状態に追い込まれていました。
 おやじの会でプロジェクト・チームを結成、夜な夜な集まり、園長と保母を集めて財政チェック。お父さんの職業も、税務署、県の福祉担当、経営者、大学教員などなど。当時、保育料からベビーランドの経費を払い、雀の涙のような残金をコタツの上にのせ、保母たちが分け合うという生活でした。私の手取りは、園舎の借金返済の一部に消えていました。「保育の仕事に惚れている保母さんたちに感謝しているだけでは解決できない」ということで、巻町初の保育についての町長交渉となりました。父母会の交渉団代表で選ばれた某氏は、県の福祉事務所職員です。巻町の福祉を指導監督すべき職員が、巻町の保育のお願いに行くわけですから、「どんな顔をして行ったらいいのか」と大笑いになりました。お陰様で、この交渉で、補助金が倍加しました。
 しかし、ベビーランドには焼け石に水の状態でした。ここでは、三歳になると保育園から子どもは出て行かなくてはなりません。他の保育園に行きたくない、でも三歳からの保育園を探さなければなりません。自分たちにあった、自然の中でのびのび過ごさせてくれる、そんな保育園探し(情報収集)が保護者の間で始まっていました。どんな保育園が良いのか、何とか自分たちの理想の保育園をつくれないだろうか、そんな話・議論の中へ、いつしか私も巻き込まれていました。保護者の声集め、アンケート等、いろいろなことをやり、行政との懇談会まで行いました。
 なぜそんなに急ぐのか、二、三年待てば、補助金を出すからと言われても、玄関も保育室にせざるを得ない状況を考えると、とても待てませんでした。認可にこだわらず、就学までの保育園を「勝手に(自前で)つくる」ことになりました。幸運なことに土地を貸してくれる農家が現れ、工事着工も目前まできました。
 今度こそ、ゆったりした建物をつくるんだ、と意気込んでいると「行政指導のもとで行ってほしい、認可手続きをしてほしい」。認可のために工事着工を二ヶ月先送りし、どうにか開園に間に合わせました。私は、もっぱら厚さ五センチ以上にもなる認可書類づくりです。
 ついに、一九九一年三月、社会福祉法人輝風会設立。四月、風の子保育園開園。六〇名の定員も翌九二年に八〇名、九五年九〇名に。九八年は一〇パーセントアップの申込みがありました。

膝の中  学童から巻原発住民投票へ

 認可保育園になると園児も職員も増え、施設の事務や経理の量はベビーランドの時とは比べようもありません。私は仕事を辞めて、風の子保育園の事務をすることになりました。ベビーランドは、風の子保育園としてスタートできましたが、学童保育は認可施設ではできませんでした。残念ながらベビーランドと共に歩んだ学童保育「風の子クラブ」は引き継ぐことができませんでした。当然のことながら保育園のまわりで、行き場を失った学童の子がたむろしているのが、風の子保育園でした。風の子ができた保育園児とは対照的に、放り出された学童の様子は、いたたまれませんでした。
 「何とかならないのか」、放課後も子どもたちの成長の場であり、共働きの子どもの生活の場が必要でした。保育園の親たちも卒園した後は何の保障もありません。また休む間もなく、借金を恐れずに、父母たちと学童保育所つくりがはじまりました。土地を借り、建物を確保して、指導員も探しました。学童の借金返済が足りず、学童の施設を貸した(ピアノ教室等)お金を返済の一部にしたのもこの時です。

一九九二年四月、ようやく父母会経営の学童保育「そよかぜ児童クラブ」が、風の子保育園の隣に誕生しました。他の学童保育をみていると、指導員の人件費をはじめ経費や施設のやりくりで、親と指導員の関係が大変な施設もあります。無認可保育所と同じくらいたいへんです。施設経営のことばかりに目を奪われて、保育内容が疎かになったり、指導員と父母の関係が悪くなることを避けるため、「そよかぜ児童クラブ」は、三年前から社会福祉法人輝風会の公益事業として行うように整備しました。
 保育園、学童保育と一安心していたところに、降って湧いてきたのが、原発問題でした。巻原発建設に不安を抱いたのは何と言っても、お母さん方で、署名集め、原発反対の折り鶴など、あらゆる行動を起こしました。いくら署名や折り鶴を集めても、推進の町長は変わりません。原発反対の町長候補も出てきません。普通であれば、原発反対の政党や諸団体が候補擁立をして、おまかせして投票するスタイルでした。
 この時は住民の原発反対の期待、思いとは裏腹に、社会党(当時)は候補擁立断念、告示前一ヶ月になっても何の候補も出てきません。保育のネットワーク、たくさんの仲間の中から、他人まかせのままではどうしようもない、素人集団でいいから原発反対の投票箱を作ろうと言うことで、私に白羽の矢が立ちました。保育園も学童も行政や他人まかせでなく、自分がやるというスタイルでしたが、町長選挙までそうなるとは思いもしませんでした。保育園の父母やこれまでのネットワークが、住民運動グループ「青い海と緑の会」をつくり、原発のない福祉の町をめざして運動することになりました。

一九九四年八月七日の投票。残念ながら、町長選挙で勝利はできませんでした。しかし選挙戦を通じて、九六年の住民投票で「原発はいらない」が民意となることは、確信できました。翌年四月、妻は町議会議員となりました。巻町のできごとを見ていると、「お母さんたちが変わると、世の中が変わる」という感じがします。住民投票の中では、たくさんのネットワークのお母さん、お父さんが支えとなってくれました。
 福祉を仕事にすると言うことは、とても苦労の多い仕事です。もの作りではなく、人間関係を仕事にしているので、嫌な思いで悩むこともあります。考えようによっては、いばらの道に思えます。まして、政治的な活動を合わせ持つ私たちの場合は、つらいものがあります。そんな中、一人のお父さんから「子どもたちへの手紙」のメッセージ(本文の後ろに掲載)をいただき、とても励まされました。福祉の仕事をするときに大切なのは、「人間という存在をどう見るか」に尽きると思います。その点で、少しの望みにも、最後まで努力する人間の姿を学んだことが、住民投票での私たちの大きな意義でした。

おわりに

かつての七つの無認可保育園は全て解消され、いまは一つもありません。私立の認可保育園も一から三園に増え、延長保育、乳児保育も拡充されてきました。学童保育も二カ所になろうとしています。町の保育状況はずいぶん良くなってきましたが、児童福祉法の中に現れただけの学童は、まだまだ苦しいところです。住民投票までの間で仲間と地域に入り、戸別訪問を繰り返す中で、高齢者福祉の必要性を感じました。家の中にぽつんと車椅子に座っているお年寄りがたくさんいます。デイサービスや介護サービスの必要性をひしひしと感じます。
 いまは、一〇月オープン予定のデイサービスセンターの図面を検討しながら、忙しい状況です。これも「くらしと福祉の街づくり」を訴えてきた、公約実現のつもりです。これまでの自分史をみると、運動を起こし、行政に実現させるやり方よりも、困難を抱える家族と一緒に、福祉を実現する方が、性に合っているようです。これからも困っている家族を支えるのが福祉と思い、新しいはじめの一歩を踏みだそうと思います。
(あいさか いさお・しげこ)

補追
 「巻原発住民投票」については、巻町住民の報告(一〜五)、音楽cd付きの巻町住民運動の著書(六)、さらに国策あるいは表と裏日本の視点(七)、その他に各放送局の特集番組もあります。巻町のシンボル角田山と保育には文献(八)が参考になります。

(一)坂井恵子、巻が示した原発建設への答えと私たちの住民自治、「住民と自治」四○二号、一九九六年一○月、自治体研究社。
 (二)渡辺敏子、「原発いらない」が答えです、「女性のひろば」二一二号、一九九六年一○月、日本共産党中央委員会。
 (三)鈴木賢治、巻原発住民投票とその意義、月刊「社会教育」、四八八号、一九九六年九月、国土社。
 (四)鈴木賢治、住民運動から巻原発住民投票をみる、月刊「社会教育」、四八九号、一九九六年一○月、国土社。
 (五)木戸利秋、、月刊「社会教育」、四九四号、一九九七年三月、国土社。
 (六)青い海と緑の会編集、新潟県巻町発「住民投票行きましょう」、一九九七年六月。
 (七)古厩忠夫、裏日本、一九九七年、岩波新書。
 (八)広井茂道、みんなで山頂へ、「現代と保育」四一号、一九九七年三月、ひとなる書房。

「子どもたちへの手紙」へつづく
 ひとなる書房「現代と保育」44号 1998年6月 より転載

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