子育ての風景(三)
林 武
父の思い出
私が小さい頃、父の姿で明確なものは、そんなにあるわけではない。最も古い記憶で鮮やかに思い出すのは、仙台に住んでいた頃、兄と一緒に連れられていった名取川での水泳である。浮き輪などの洒落たもののない時代で、青い竹竿を浮輪がわりにしてくれたが、何のことはない、兄も私も泳がずに、父だけが気持ちよさそうに泳いでいるのを眺めていた。きっと私が、三歳の夏のことである。
幼い頃、住んでいた仙台の市営住宅は、六畳一間に小さな台所とトイレがあるだけの長屋であった。夫婦喧嘩をして、近所の奥さんが我が家に悲鳴を上げて逃げ込んで、それを亭主が箒を片手にを追いかけて来るようなこともあった。こんなものを見ていると、大人が怖いものだとつくずく思った。その仲裁に入った父も大したものだと思ったが、いまになってしまえば当たり前のことかもしれない。ただ、母親に手を挙げた父の姿は、これまで一度も見たことがないし、きっとなかったと思う。
父に叱られた思い出といえば、四歳の時に兄とコタツの周りを走り回って、葉書を書いていたインク壺をひっくり返し汚してしまったときだ。近くの川に連れて行かれたが、何といわれて叱られたかは憶えていない。そのとき、パーマ屋からの手伝いを終えて自転車で通りかかった母に助けられた。
こうやって思い出してみると、母ができないようなことをしてくれた存在が父なのかもしれない。
山形に引っ越してからの父は、長時間通勤していた(自分も長岡から新潟まで通勤して、はじめて父の苦労がわかった)。朝は一番列車で出かけ、夜は寝る頃に帰ってくる生活であったが、父が帰ってくるのを布団の中で待ちかまえ、鞄の中に美味しいものがないのかを探るのがささやかな楽しみだった。(陸上自衛隊の食料の見本がよく入っていた。)
父は、病弱で喘息持ちの私を背負い近くの診療所の玄関を叩いたことが何度もあった。このことでは、母にもずいぶん心配をかけた。しかし、こんなに世話になった父は、もうこの世にいない。いろいろ世話になった借りを返せないままとなっている。
末期癌と病院
去年の夏に、北海道の妹と長崎の兄の家族と両親を粟島に呼び寄せて、孫と一同に会する企画を立てて、「孫とあえるのは、あとは親父の葬式ぐらいなもんだ」と冗談を言ったが、現実になるとは夢にも思わなかった。
今年二月下旬に実家を訪ねたときは、最近体調がよくないのは、家でじっとしているからだといって雪投げをしていた。三月になり腹が張り、食欲減退と嘔吐の症状があり、市立総合病院でx線ctの診断で膵臓癌の末期であることがわかった。自覚症状も目立った症状もない膵臓癌は、他に転移して腹水がたまり、はじめて自覚症状がでる。その時はすでに手遅れとなり、手術、抗ガン剤による治療の見込みもない。点滴による補給と鎮痛のみが、医療方針である。
入院の枕元で医学書を広げ、病名と症状をいろいろ調べている父に、病院側はかなり閉口したらしい。この病院では、告知しないことを原則にし、ターミナルケアのケーススタディもなく、患者は黙って処置を受け入れるのみであった。これでは、父と病院の信頼関係を作ることはできないと感じた。また、何度か見舞いにいったが、病院には医者の指示に従い医療をする側とそれを受ける患者の関係しかない。そこには家族の空間はなく、どうも自分としては、病院でこのまま死んでいく父を見ている気になれなかった。
病院から外泊許可をもらい家で告知をした。告知の条件としては、父が告知を受け止められること、告知をされた父が希望する生活をできる限り保障することの二つであった。前者については迷いもあったが、きっと家での生活を選択するであろうから、その体制さえしっかりしていればよい。癌の告知を受けた父は、症状も合い、納得でき、疑心暗鬼にもならず、知らされてよかった、といっていた。父が言うには、このような大事なことは誤診があってはいけないので、山大付属病院の医者にも診てもらい、同じ診断なら腹を決めようとのことだった(言われてみれば、その通り)。
四月中旬に退院して、近くの医院に通院して点滴をするのを日課とした。はじめは、自分で運転もしたが、衰弱により困難になり、タクシーで通院した。日曜は、市立総合病院の救急外来を利用した。食事は、ほとんどとれないので、点滴だけが唯一のたよりでした。(やっかいな問題は痛みだが、いまは塩酸モルヒネなどが開発され、経口薬、座薬などがあるため、かなり解決されている。ホスピス運動の成果でもある。点滴も訪問看護があれば、医者に行く必要もない。)
在宅看護、在宅死
家で看病するようになって変わったことは、母も父も病院と違い笑うようになったことだ。これは、病院では患者も家族もあらゆるものに遠慮がちになってしまうからだろうか。看護する母がダウンしないように、こちらが週に一度は援助することにした。それで、リフレッシュでき、話し相手にもなり、いろいろ用事も足せる。母は、体に悪いからというが、私は好きなことをさせてやりたいと思った。山菜取りの好きな父は、山が芽吹きの時を迎えると、どうも気になってしょうがないらしい。ろくに歩けない父でも、山に行くと両脇を抱えて歩くと、ずいぶん山道を登れた。流石に下りのきついところは、私が背負ってきた。桜の花見にも連れていった。魚を兄と釣りに行ったりもした。釣果がゼロなので、それは残念で死にきれないだろうと、冗談を言って笑ったりもした。
終末医療の難しさは、患者の精神的不安であるという。私たちは、薬や病気の進行と症状について正確に本人に知ってもらうように努めた。そのことで意外と不安を減らすことができた。知らせないことが、相方の不安を増すのかもしれない。
また、受容することも大切だ。このような病気になると、それはできないから、無理だと否定することが多くなってくる。しかし、なぜそうしたいのかをよく聞きながら病状や困難性も合わせて話すことで落ち着くことも多い。しっかり受け止めることができるのも、母一人の看病では無理だったと思う。父もしっかりしたもので、看護記録の様式を自ら作って、最後まで記録させていた。
亡くなる五日前、珍しく父が、ビールや酒を飲んでもよいのだろうかというので、さっそく医者に尋ね太鼓判をもらい、一緒にビールを飲んだ。父はコップ半分くらい飲んだだろうか。父のいろいろ思い出話も聞きながら、墓の話もした(これが考えてみれば、別れの杯になった)。その日は、須賀川の牡丹園に行きたいと言っていたが、遠すぎるので庭に連れ出して、我が家の牡丹で我慢してもらった。
夕方に疲れているようなので、医者に往診にきてもらった。医者は明日にでも入院してはどうかと言ったので、その準備をした。その夜半に呼吸が浅いので、心配になり、親戚にきてもらい救急車で病院に運ばれ、まもなく亡くなった。苦しいかと尋ねても、首を横に振っていた。苦しまなかったことには救われた。
もうこれで、食べれなくて困ることもない。嘔吐と衰弱で苦しむことのない所へ旅立っていった。天国に言った親父に乾杯!と強がりでも言っておこう。父には、死にぎわなんか気にするなと、教えられたようだ。(「死にぎわなんか気にするな」とは、ゆきぐに大和総合病院院長の斉藤芳雄さんが、「人生九〇年代、老い方、死に方」教育史料出版会、で述べている。死にたいところで死ねるような医療・福祉体制をめざした大和町では、在宅死が半分くらいになっている。)
享年七二歳、今年の一一月に生まれてくる七番目の孫の顔を見れなかったことが心残りだった。
つづく